2009年4月21日火曜日

壁が、窓が、框が

仕事が忙しかったり、週末は不在にしていたりでしばらく投稿ができずにいたが、月曜日、火曜日と仕事前に朝、現場に立ち寄り進捗状況をチェックしてきた。

屋根が出来つつあるのはすでに書いたところだが、すでに壁が出来上がり、アルミサッシの窓はすべてはめ込みが終わり、防水・防湿シートも貼られて徐々に外から中の様子が垣間見れなくなってきている。よくよく見てみると軸組み工法のみかと思い込んでいた、大梁と桁の間には筋交いが入れられ、ボルト締めされている。
また基礎上の土台がべた基礎コンクリートの上の中空に浮いていたものに、つっかえ棒のような柱が差し込まれて強度補強が行われている。「つっかえ棒」?で大丈夫か、という気もするのだが。上方向からの力を支えるにはボルトがあろうがなかろうが同じである。横方向に力が加わるときには土台に締め付けられたべた基礎部分に応力が働くことになる。この件は、大いに疑問であるのだが、後日耐震構造と建築基準法に対する疑問、とでもいうお題目で後に回すとして現状を報告。

窓のうち、南側に面してないところなどはアルミサッシである。全部が全部、「キマド」というわけにはいかなかった。やはり、キマドはお高い。

今、最大のトピックは、「上り框(あがりかまち)」である。「框」なぞ普通読める漢字ではない。窓や障子などで周りを取り囲む四角い枠のことや、玄関の上り口にあって床に上がる前に上る1段高くなった横木、という解釈らしい。我が家の上り框は大黒柱と胴差(?)の余りで作られるもので、2本の横木を水平に接合したものである。ケヤキとカツラの木である。

なかなかカッコ良い。この上り框を作るのにも数日、大工さんは手を動かし続けている。ケヤキはやはり相当堅かったようである。ほぞ穴を空けるにはなかなか苦労したようだ。材は余すところなく、使い果たすを命題にしてこの家を建てているがやはり、削りかすや板材にした際に残って捨て去られる運命の木が生じてしまう。コンテナに積まれた古材がなんとも痛々しく思える。鶴岡から茅ヶ崎の地に運ばれてきて、早出番を待って息を吹き込まれる古材と引き裂かれて捨てられる、というのは何とも心が痛い。

なんとかしてやって、本棚の飾りとか引っ掛かりの出っ張りでもよいので残すことができればそれに越したことはない。

2009年4月15日水曜日

家具職人、plots

キッチンは、(有)plots さんに頼んである。今日はそのplotsさんの事務所兼工場へとお邪魔してキッチンの打ち合わせを行った。この会社、妻が探してきたのだが、家具屋?カヌー屋?オーダーメードキッチンメーカー?、そのどれもをこなす多才な会社である。社長の中村孝太郎氏、奥さまで職人の香奈子氏、ほか数名のスタッフによって営まれている小さな会社である。

しかしながら秦野のオフィスを引き払い、川崎に移ってきて1年ほど、とのこと。仕事はどんどんと入ってくるようで大入り満員の様子。数度、このお二人とは打ち合わせで話をしたが、非常に気持ちのよいご夫婦で、造作へのこだわりが随所に見受けられ話をしていて楽しい。

そのセンスの良さと、こだわりから様々なところから仕事が舞い込んでいるようだが、孝太郎氏はカヌー製作も手掛ける、職人でもある。キッチンの打ち合わせのあとでは工場見学をさせてもらった。工場といってもショールームの後ろでガラス張りのなかであり、仕事っぷりはショールームからでも見届けられる。
個人的にはここでもやはり、気になるのは道具である。「切る」、「削る」しかしてない、というのは孝太郎氏の談。様々な「切る」機械が並び、「削る」機械が並ぶ。私個人は研究の都合上、ボール盤と旋盤は使えるのだが、なかなか今日見た機械たちはよくできていると感心した。仕事の効率化には欠かせないようだ。

これは「切る」道具



これは「削る」道具たち

そして、これは「押す」道具。シナフラッシュ(シナ合板)を作る際などに、上から一定の力を加えて保持する、ということ。


「シナフラッシュ」は住宅建設で頻繁に出てくる言葉だが、初めて実際にどんなものかを把握した。「シナノキ」はシナノキ属シナノキ、Japanese Limeと呼ばれるやわらかい広葉樹。桂剥きにしたシナノキやラワンの繊維を一枚ずつ直交させて接着剤で張り合わせていく合板の一種とのこと。芯となるような間に挟み込む板状のものを、2枚の大きな面上のこれまた薄い板ではさみこみ中空にしたものが、どうやら「シナフラッシュ」らしい。なので、中は中空である。合板を形成する桂剥きの「皮」の方向からすれば面と中の部材は直交する。
合板、この技術はある意味素晴らしい。1907年に名古屋の浅野吉次郎が独自に開発したベニヤレースが始まりらしいが、海外ではすでに明治時代には作られていたらしい。今では合板で棟木だってできるし、なんだって合板でできてしまう。「反らない」、「歪みなく均一」というのでてっとり早く家を建てるにはもってこいである。普及するのも理解できる。

訪問した際に、職人さんが一生懸命、削っていたのは椅子の背もたれであった。打ち合わせで腰かけた椅子もなかなかの座り心地であり、曲線美の肘掛をついなでてしまう、というのはうちの同僚、脇田さんがいつも口癖のように言っている、「そうさせてしまうデザイン」というものだろう。電車の座席に色分けがしているとついその上に腰かけてしまい、7人掛けが成立する、というたぐいである。ついつい寝ころんでしまうような長椅子とか、そんなデザインは人間の身体性をくすぐるものらしい。以前、信玄の隠し湯、下部温泉の大市館でジョージナカシマの椅子に座ったことがあるが、これは最高でついつい椅子の肘かけをなでてしまうし、そこに珈琲をおいて本を読みたくなる不思議な椅子であった。我が家のバルコニーにもこうした椅子がほしい

P.S.
これを書いてて気がついたが、下部温泉大市館がつぶれてしまい、裕貴屋という別の旅館になってしまっている。ショック。。。

2009年4月12日日曜日

もとい、「千歳棟、万歳棟、福福、時代棟!」

「千歳棟、万歳棟、永永棟」ではなく、庄内の大工さんの締めの言葉は、「福福、時代棟」であった。様々なバリエーションがあるようだ。

上棟式が終わり庄内の大工さんたちの仕事もあと残すところ1日となった夜に、大工さんたち、設計を担当した設計士さんを自宅に招待して夕食を共にした。これは私のたっての希望であった。ささやかなホームパーティーで大工さんたちの努力をねぎらった。個性豊かな皆さんと語らった数時間は大変楽しいものであった。話は多方面にわたり、今まで携わった民家再生のことや、「出来ないことなんか、決してない」というモットーの渡部工業社長さんの言葉、など心に残り会話がたくさんあった。なかなか職人さんの素顔や生の声を聞くことはできないが、今回は大いに楽しませてもらった。皆さん、酒が強かった。。。

友引の上棟式

上棟式を終えてひと段落した。

家を建てるという工程のなかでも大きな節目のこの上棟式を終えて、いろいろと考えることがあった。30年ほど昔、自分が九州で子供時代を過ごしていた頃は、上棟式(棟上げとしか呼んだことがない)は日常よく見る光景であった。朝から五色の旗が掲げられ集団登校する小学生の間ではお互いに今日はどこどこで餅まきがある、という情報が交換され子供たちの学校が終わる午後3時くらいに、餅まきが行われる、という暗黙の了解があったように思う。四隅餅をいかにして奪い取るのか、ということに腐心していたことを思い出す。

その土地に住みながらにして家を建て替える場合には無論ご近所さんとは顔なじみだが、新参者がよその土地にやってくる場合、自分たちの素性や取り巻く親戚、友人、知人たちが一体どんな人であるのか、をご近所さんが知るよい機会になっているはずであり、餅まきというイベントを通してその後始まる生活をスムーズに運ばせるような気がする。同時に建築中、騒音をはじめとして周りの住人に迷惑をかけているわけで、そうした不満などを解消する役割にも少なからず貢献していると思う。

職場の人口論・家族論などの専門の先生に聞いたが、2006年あたりから日本は独り暮らしの世帯が最も多くなったと聞いた。住んでいる「独り」が、若者か老人かは別にしてこうした日本の伝統的な光景が見られなくなったのは必然である。またマンションやアパートといった集合住宅に住む場合には、そもそもそんなことには縁遠くどうやってマンションが建っていくのか、といったことに住む人が興味を持とうともその現場を見ることは許されていない。屋根の上の上棟式の儀式に感じたような充実感はおそらく味わうことができないだろうと思われた。

上棟式は、4月7日(火)というグローバルに通じるカレンダーの上での日取りで行われたが、これは六曜で、「友引」にあたる。結婚式は大安で、というくらいは日本人が誰しも知っているが、先勝→友引→先負→仏滅→大安→赤口の順番で日が順繰りにめぐる、この暦は日本人の生活に昔から深くかかわってきた。友引はWikipediaによれば、「凶事に友を引く」と言われているようである。実際、六曜は仏教と関係ないので葬式を忌み嫌うのは迷信であるが、お祝いごとの場合、友を引くからよし、といわれるのもどうやら迷信っぽい。ということで迷信のようにも思えるが、縁起ものは大安には及ばずとも「まあよし」と考えられているらしく、この日が選ばれた。ちなみに我が家の土地を購入した不動産屋さんはこの六曜に従って仕事を進めるらしく契約は必ず「大安」に行う、とのこと。六曜和暦以外にも、二十四節気など日本人の生活にかかわる節目がいくつもあるが、今の時代こうしたことに気を留めることも少ない。

上棟式に意味はあるか?と言われれば「絶対にある」と施主としては自信をもって断言する。忘れかけている日本の伝統的な行事を伝える、という意味以外にも地域に住む、というこれからの意味と集まってくれる人と旧交を温めたり、意外な接点を持ち合わせるまったく無関係と思われている人たちの輪が広がる、という意味でこうした行事は是非ともお勧めしたい。役に立つとか、お金がかかる、とかいう価値判断基準ではない良さを再認識した今回の上棟式であった。

2009年4月8日水曜日

千歳棟・万歳棟・永永棟

上棟式で棟梁はじめ3名の大工が声を出しながら槌で打ち付ける儀式が昨日あったが、なんと発声しているのか聞き取れなかった。これは、
「千歳棟・万歳棟・永永棟」(せんざいとう・まんざいとう・えいえいとう)と叫びながら、棟木を棟に打ち固める儀式の「槌打の儀」という儀式だったようだ。意味は明瞭、末永く棟が生きながらえますようにという意味である。

気になって気になって仕方がない、言葉でした。わかってよかった。

2009年4月7日火曜日

上棟式を終えて

予定通り、2009年4月7日(火)15時より上棟式が執り行われた。友引の日取り、天気にも恵まれて気持のよい上棟式となった。仕事を終えて現場に駆け付けるとすでに、五色の旗竿が掲げられ梵天などがあつらえられていた。

ぱらぱらと近所の人たちも集まってくる中、施主の私は屋根の上に登り上棟式の準備に立ち会う。
施主側で準備したものは、米、塩、日本酒(お神酒)、赤飯、野菜、果物、昆布、するめ、六文銭代わりの五円玉(紅白の水引をつけて)。それぞれ意味があるのだろうが深くはわからない。用意された棟札には以下の文言が書かれている


O設計室に教えられたところによれば、
【①手置帆負命(たおきほおいのみこと)】
天太玉命が率いていた神の一柱。讃岐の忌部(いんべ)氏の祖神。手尺の神。
【②屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)】
日本書紀に出てくる神様で、木の神々、句句廼馳(くぐのち)神のこと。
【③屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)】
五穀豊穣の神様、豊受姫。稲荷神に相応しい神様。
【④彦狭知命(ひこさしりのみこと)】
天太玉命が率いた神の一柱。奇異の忌部氏の祖神。尺度(さし)を掌る神

※①と④は工匠の神・棟梁の神

とのことである。ふつうは棟札は天井裏などへ納められるが、我が家には天井裏がないためこれは大黒柱上、棟木との接合部分あたりにかけられる予定。立派な棟札は渡部工業の渡部社長が自らしたためた、ということ。欅の大きな棟札は大変立派なものであった。

儀式は渡部工業の小池さんの進行役によってはじまり、熊田棟梁が儀式を司る。お神酒を祭壇に載せられた餅にかけ、東西に走る棟木の上、両側に西側、東側とかけていく。続いてやはり祭壇に載せられた米を今度は屋根の四方に撒いていく。最後は同じく塩を屋根の四方に撒く。
次は、「△■※×◎。。(聞き取れない)」と叫びながら大工が西側棟木上に置いた木片を金槌で七回打ち込み、東側に控える大工が今度は「※×◎△■。。(違う文句で)」と五回槌を打ち込む。最後は棟梁が祭壇前で三度槌で打ち込んだ。今度なんと言ったのかを確認しておこう。これで、儀式はほぼ終了。
次に皆でお神酒を分け合って乾杯をする。そしていよいよ「餅まき」である。四方餅(私の出身の福岡では四隅餅と呼ぶが)をまずまいて、次に水引のついた五円玉、紅白餅を下に向かって、私と、大沢さん、渡部工業の渡部さんと3人でまいていく。なかなか爽快な気分だが、頭に当たったらどうしよう、などとついつい考えてしまう、思った以上に遠くに飛んでいかない。近所からやってきた子供たちが喜ぶ姿がほほえましく思えた。

餅まきが終われば、ここまでの職人さんたちの労をねぎらう直会(なおらい)が執り行われる。要は宴会である。O設計室の加々美さんの進行役で、まずは施主の私が自己紹介と蔵の由来を説明し、続いてO設計室の大沢匠さんが祝辞と日本民家リサイクル協会の活動を述べ、あとを引き継いで工事を取り仕切る飯村さん、そして渡部工業社長、渡部さんが乾杯の音頭をとって宴会が始まった。

屋根の上で太平洋を前にし、儀式を執り行う棟梁の姿を見つめながら何という爽快感かと思った今日の上棟式であった。研究室の学生たちやスタッフ、私の研究をサポートしてくれている健康教室参加者の方々など多くの方が参加してくれてたくさんの人にお祝いされ上機嫌である。古き良き日本の原風景を踏襲し、縁を感じずにはいられなかった今日の上棟式である。来てくれた皆さん、ありがとう。

いよいよ、上棟式

今日は遂に上棟式である。
昨日午前中に現場を見に行くと屋根には既に報じたように防水シートが張られている。準備万端である。

地鎮祭のときは雨、しかも暴風雨に近いような状況で皇大神宮の神主さんにも、O設計室の皆さんにも、現場を準備してくれた飯村工務店さん、駆けつけてくれた長田左官さんにもずいぶんと寒い思いをさせてしまったが、本日の天気は晴れのち曇り、で温かい日差しが期待される。今日は友引でもあり、上棟式にはよい日取りであるが、折しも娘の誕生日にあたる。昨年の娘の誕生日にはこの鶴岡の蔵を実際に見て確認するために、O設計室のお二人と鶴岡に飛び渡部工業の倉庫で蔵の部材を確認して、現物を見て思い切って購入を決めた日であり、1年経った今日になってそれが形になってくれたことは感慨深い。


当初の計画から、さまざまな変更を繰り返しながらここまでやってきた。

最初の頃に作成してもらった模型であるが、こうしてみると、ずいぶんと違っているが気がつくのは自分たちだけだろうな、と思う。

今日の上棟式は庄内地方の流儀に従って執り行うことが決まっているが、記録係も付いてくれることになり今日は自分は施主のため撮られる立場と変わることになる。夜には上棟式の模様をお知らせしたいと思っている。

2009年4月5日日曜日

屋根、その後

屋根の工事は着々と進んでいる。石膏プラスターボードを張った上に厚さ90mmの垂木を内掛け梁の真上に並べ、釘で打ち付けるまではアルバムでも紹介したが、その垂木の間、芯から芯まで90mmの間には断熱材が敷かれた。断熱材の厚みは45mm、ということで45mmの空気層ができあがる。この隙間が空気の循環を生み出し、家を呼吸させる(はず)。この上には次は、野地板が敷き詰められ、防水シートが張り詰められる。そして最後はガルバリウム鋼板仕上げ、となる。

2階北側にはキッチンがあり、長い庇が南側に出ることもあって、北側キッチンがやや暗いことが想像されるために、キッチン上部には天窓を設けた。これについては明日にでも写真を追加して紹介したい。直射光が入らずうまく光を入れてくれることを期待したい。

渡部工業の大工さんたちの仕事は徐々に細かくなっていき、クリの柱の悪いところの埋め木、現わしになる場所の磨き、加々美氏は「サンダーで」、と言っているがハンディグラインダーに研磨紙、研磨布をつけて現場で磨く作業のようだ。学生時代にボール盤で穴をあけ、旋盤でデルリンを削り、グラインダーで仕上げ磨きなどしてた身としては少々やってみたい気分になるが、削りすぎるともとには戻らないことを考えると躊躇してしまう。

2009年4月2日木曜日

屋根の裏

屋根裏ではない、屋根の裏である。

下屋部分とベランダ部分は蔵本体の屋根から張り出しているために、そこだけは新材を使って建て増している。その部分、北側の下屋部分の、屋根の裏はご覧のとおりの出来栄えである。玄関入って左手階段部分を見上げるとそこに下屋部分の屋根の裏側が見通せる(はず)。その部分の写真である。通常、床材に用いるものをここでは屋根の「裏」にもってきているのでとてもきれい。ひっくり返って足の裏をぺたりとくっつけてみたくなる、くらいきれいである。この施工とても時間をかけていたらしいが、聞いてみるとやはり大変である。約4m近いこの屋根板を桁と同じ方向にはめ込んでいくが、これだけ長いとわずかの反りもそれが重なれば、屋根板全体が反ってしまうことになりかね無い、ということで内掛け梁と垂木の間に差し込んでいき、ねじれと反りが出ないように抑え込みながら短軸方向に接合していく、気を遣った作業であるとのこと。
屋根全体にわたって、内掛け梁の上に石膏プラスターボードが張られているが、その上に垂木を並べ、隙間には断熱材が張られていた。

屋根換気に関しては、こんな感じ。通気のための穴があけられている。

屋根の「裏」と書いたが実のところ、我が家にはいわゆる「屋根裏」は存在しない。素敵な棟木と内掛け梁を隠すのは勿体ないので、すべて現わしにしてみせるという仕様である。そこで屋根裏はなく、石膏プラスターボードの上に断熱材、その上に屋根材、ガルバリウム、という手はずになっている。瓦にできなかったのが、口惜しい。