2009年7月21日火曜日

前線が停滞している

当たり前といえば当たり前のことであって驚くこともないのだが、

「前線が停滞しているから、しばらく外壁に取り掛かれません」

という長田左官社長の長田さんの言葉は新鮮だった。左官は天気図も読めないといけないのか、と感心しきりだったのは私だけである。これが1週間前の出来事。その日、日曜日は妻子が京都に行っており一人だったのだが現場に行ってみると長田社長が一人黙々と内壁の下塗りを行っていた。とここまで前回のブログでも書いたとおり。その際、外壁の話になって出てきた台詞が、これである。考えてみれば当たり前で、数日間晴れた日が続かなければ外壁の仕上げがうまくいかない、ということであるから観天望気くらいは朝飯前であってほしい。

1週間たって、いまひとつ左官は進展しなかったが本日、20日(月)、休日にもかかわらず6人の左官を率いて長田さんがやってきた。あいにくこちらも休日とはいえ仕事だったのでカメラを持ち合わせてなかったので撮影をすることができなかったが、外壁については接着剤を全体に塗りわたらせる作業中であった。内壁については、2月に長田左官さんに訪問した際に、スサ作りに追われていた左官さんが二階トイレの漆喰壁に取り組んでいた。実際に間近で漆喰壁を塗る左官を見たのは初めてであったので感動した。

まずは、匂いである。海の匂いがする。当たり前だが海草が練りこんであるからにほかならない。そして思ったよりもクリーム様の漆喰の材料にも興味が向く。感触としては、カニクリームコロッケの中身といった具合である。そんな柔らかさと粘りを感じる。下地の漆喰にはスサが練りこまれておらず、上塗りの漆喰にスサが練りこまれている。下塗りが乾かないうちにすぐに上塗りに取りかかり、次々に縫っていく。巧いもんである。丁寧に丁寧に、塗っていき角をうまく仕上げていく。見事である。色々な鏝は場所場所で使い分けていく、道具と動きが完全にマッチしていることに感動する。

明日から外壁の仕上げに進む、ということであるがあいにくいまひとつ天気がよくないらしい。まあ土砂ぶりではなさそうなので何とかなるかな。明日になってみて仕上げた漆喰壁の二階トイレがどうなっているのか興味深い。

2009年7月12日日曜日

左官と漆喰

あまりの仕事の忙しさに、このblogの更新も滞りすでに3週間。

この間、大工さんによる作業は終焉を迎え、ついに最後の出番のひとつといえる左官の登場と相成った。大工さんによる仕事の最後は内装の細かな仕上げに加えて、大戸の仕上げ、加えて作り付け家具が主なものである。この家具については妻の要求を微に入り細に入り聞いてもらい仰木家カスタマイズ仕様のものになった。これについては次回の記事として書いてみようと思う。

左官はすでに報告した通り、小田原城の修復や文化財修復などにも活躍している長田左官さん。我が家の壁で左官さんにお願いしたのは、外の土壁、内の漆喰である。外壁については、アースカラーと呼ぶと今風であるが、自然な色の仕上げを依頼している。内部の壁の漆喰は寺社仏閣のような真っ白な漆喰ではなく、淡い乳白色に藁を練り込んだ民家に向いたような色合いである。天井のペンキと似た色になる予定である。天井とはいっても我が家には実は天井裏がなく、天井のすぐ上は通気層を隔てて屋根である。なかなかこれに漆喰も難しかろうとは素人でも分かるが、白い天井は部屋を明るくしてくれること、と期待している。

腑に落ちないなあとずっと思っていたのは、「左官」という言葉と「漆喰」という言葉である。左の官職?左遷というくらいなので誰かさんからみると位が低いのか?と思っていたが、調べてみるとこれは、「属」という漢字の訓読みの「さかん」であるらしい。古くは宮中の修理などを行う人たちのことを、木工寮の属と呼んだらしいが「属」は行政官の官位のひとつとのこと。なるほど、と思った。知り合いに「属」と書いて「さつか」さんという人がいるが、宮中での仕事をしていた人の子孫かもしれない。

漆を喰む?漆喰という言葉には漆が使われているが、漆喰にはどこにも漆は使われてないし不思議なことよ、とこれもずっと以前から思っていたが、こちらは「石灰」の唐音読みの「しっくい」に対する当て字、だということ。なるほどこれも納得。唐音読み、ということからして唐の時代に伝わったかと思えど、古墳時代から、さらにはエジプト古文明でも使われているらしい。キトラ古墳の修復中に増殖する微生物は漆喰(石灰)に寄生したもの、という報告もある。

本日、7月12日(日)だが、ちょっとのぞきに現場を訪れると長田左官親方が一人黙々と漆喰の下塗りを行っていたところで色々と質問をしたりして少々時間を過ごした。

私の本業は研究職でヒトの動きを研究しているのだが、この左官の技には以前より興味があり今回も何とか記録に残したいと考えている。どのように記録するか、は乞うご期待ということにして後日報告したい。鏝(こて)の種類に驚き、自由自在に色と肌理(きめ)を操る左官という職業は昨今話題にものぼっている。京都工芸繊維大学には伝統みらい研究センターという機関があり、左官の技についての研究も行っている。以前、私も指導していた学生が研ぎ師の技の研究を発表した際に、彼らと知り合いになったこともあり、業界ウォッチならぬ研究ウォッチを続けている。今回自分自身が左官に仕事を依頼する機会を得て、どうしても左官の技を観察してみたいと思った次第である。特に和室の壁の一角を大津磨きという仕上げにしてもらうことになっているため、この部分を中心に観察してみたい。

2009年6月17日水曜日

余った古材のゆくえ

構造材を司どる大きな柱や梁、桁などはほとんどが元の蔵の材を再利用している。一部どうしても使えそうになく腐っていた部分などは涙をのんで切り刻んで、あらたに栗や米松などの材で補強することを含めて導入した。非常に残念なことに我が家の蔵はもともと、あと半間(90cm)長かったのだが、土地に収まりきれないために泣く泣く棟木の西側を切り落とした。まだ使い道が決まっていない。

このケヤキの塊がどこに行くのか、今後検討していきたいと思う。

そもそもこの蔵は、すでに書いたように漬物屋の蔵として明治29年に建てられたのだが、構造から推察するに貴重なもの、たとえばお金などが収められていたのかもしれない、とのこと。というのはそもそもクリでできた柱は、半間のさらに半分である45cmピッチで建っていた、ということである。なぜかと言えば、それは土蔵破りを防ぐためであったらしい。そのまま再生すると牢屋のようないでたちになってしまうので、半間おきの柱として抜いて、その抜いた柱は天井高の低い蔵の高さを上げるために継ぎ柱として再生された。よく目を凝らしえ見るといろいろなところで、このように継いだ跡が見受けられる。強度を保ってしかも柱を伸ばすというのは大工の確かな仕事の現れである。


鶴岡の大工が帰った後は、ここ地元横浜の大工が常時4名ほど取り組んでくれて仕事が進んでいるが、余った材はいろいろなところに登場している。余った材といえば、大梁、大黒柱などがあるが、貴重なこれらの材は今まさに命を再び与えられようとしている。

大梁は、玄関の上がり框へと

屋根瓦の下にあった野地板は、駐車場わきの倉庫、二階のピアノ背面の壁、そして書斎の壁へと


上の写真でもわかるように、蔵窓はそのままキマドや、サッシ窓にかぶせて蔵の往時をしのばせるような造りとした。蔵窓も蔵戸も別に余っているわけではないが、蔵の大戸はそのまま玄関として再利用される出番を今待ち構えている。

2009年6月10日水曜日

柿渋塗ワークショップ

2009年6月7日(日)、柿渋塗ワークショップを行った。といってもこじんまりとした内輪でのWS。事前に声をかけて興味を持ってくれた妻の友人家族3組がやってきて、我が家と合わせて4組、総勢大人7名に設計士のMirror man氏を加えて行った。休みにも関わらず手伝ってくれた皆さんには本当に感謝している。

さて、その模様を御伝えしたい。
10時開始。まずは自己紹介をしてお互いの名前など確認しあった後、Mirror man氏から柿渋塗とは、どんなものかの紹介が行われた。今回の柿渋塗対象の材は、主として新規に入れた新材のスギ、ヒノキ、クリに色をつける、という目的で行われた。そのため木の特性にあった調合を必要としたらしい。

スギ・ヒノキ用:柿渋+松煙+ベンガラ
クリ : 柿渋+松煙+ベンガラ(多め)

柿渋の濃度、松煙、ベンガラの配合は微妙である。O設計室の紅一点、柿渋塗りには一日の長のあるK氏が調合を担当した。

手順として
マスキングテープで塗る材の周囲を保護
刷毛で数度、調合された塗料を塗る
色を見ながら場合によっては数度塗りを繰り返す

である。大人8名で取りかかったので思ったよりもてきぱきと仕事は進み、大方は午前中に片がついた。お弁当を持ち寄ってきたので昼はガレージで昼食会を催し色々と話が弾んだ。








やってみて感じたのは同じ材であっても、塗料を塗ってみた感じが全く違うことである。数度塗りを重ねて色がよく沈着する場合、まったく染みていかない場合、杉であれば赤身の杉と白身の杉で色の乗り方が違う。ただこれはヒトが反射光をみているので当たり前。節のあるなしではやはり柿渋のしみ込み具合が異なる。非常に面白い。部分的にヒノキを使っているが、ヒノキは油分が非常に多いのでなかなか難しいと聞かされ始めたが、全く柿渋をはじいてしまって全く寄せ付けない感じである。古材の色にこだわらなければヒノキはヒノキらしく全くの無垢材として用いた方がよい。

ひとつ残念なことは全部を古色塗りにしてしまうと、我々、次に誰が住むかは分からないが住み次いで行く間に変化して色づいていく部分を残せないことであろう。年輪のように色も次第に染み付いていくのも楽しみたいのではある。

なかなか終わったなあ、と思ってその日は安心した気分だったが、よくよくみてみると相当に残っている部分があり、しかも左官仕上げの前にはこうした塗装をすべて終わらせておく必要があり、その後夫婦で時間をみつけて塗りの作業を継続している。柿渋塗り体験をされたい方は是非、ご連絡いただきたい。大歓迎である。
後日、やったのは下の写真の格子、二階をあがってすぐのキッチンとの仕切り壁となる予定。個人的には塗りの完成度には多いに不満である。

2009年6月3日水曜日

粋な大工の技

徐々に内装が進み、家らしくなってきた。仕事も忙しかったためになかなか現場に足を運ぶ機会がなかったが、しばらく行かないと進行したなあ、という気持ちになる。

外部の壁については木摺りの施工が終わった時点でいったん停止しており、左官工事が始まるではお預けになるであろう。そこで現在の工事は内装のなかでも内部の壁の工事が主たる作業になっている(ようだ)。大工さんの頭のなかで考えられている現在進行形の仕事のスケジュールは知る由もないのであくまでも憶測。

渡部工業から引き継いだ現場の大工棟梁、飯村さん率いる大工さんの集団は日によって入れ替わるものの常時3、4名が工事に携わってくれている。細かな造作をみていくと、大工の技が「きらり」と光る箇所がいくつも発見される。

「お、粋だね」と感じられるものを少々見てみたい


玄関の庇を下から見上げてみると見事な杉の板とそれを支える桁(?)が見えるが、よく見るとこの桁には節がない、「無節」という一級品の杉である。見た目がとても素敵である。


上がり框は、大梁の余った材を再利用するが、異なる木のケヤキとカツラを接合して、ちょうどうまい具合にRがあるものを上がり口に持ってきた。今は養生中のため、見ることはできない



ベランダの下を支える杉は、「焼杉」としてあつらえられた。こうすると外側が強固になるために雨にさらされることを考えても合理的でもあり、見た目もなかなかよい。そして次は内装にも焼杉を使って例である。


この材はもともと屋根の野地板だったので、もとはこのようなものだった。

これを丹念に、使えるものを抜き出し、さらに板幅が元と先ではまったく違うものをそろえてようやく使えるようにして、さらに焼加工を施してこうしてピアノの背面に来る予定の壁として仕上げてくれた。
もともと整っていない柱、不規則な曲面に板をそろえるために板の根っこ部分を斜めに切り落とす、といったこれまた粋な技もここには見受けられる。



さて、本日のお題に見合った、これぞ粋、と思えたのは次の例である。ベランダの手すりである。

よーく目をこらしてみると、斜め手前に傾いていることがわかる。おそらく寄りかかったときに前に滑りださず、ここちよく立って構えられるという配慮か?

2009年5月25日月曜日

壁、再び

壁がさらに形作られてきた。

断熱材のネオマフォームの位置関係からすると構造的には内断熱ではあるが、むしろ「考え方」は外断熱に近い、というのが設計士のMirror man氏の談である。

内断熱=充填断熱
外断熱=外張り断熱

ということで、構造的には確かに外壁と内壁の間に断熱材を入れるので我が家は内断熱。ところが外断熱では外側に「隙間なく」断熱材を施すことと同時に、壁内部に空洞をつくり、空気層を生かすことと、というのが特徴であることから我が家のように壁内部にも空気層を設けているので外断熱の構造を一部採り上げている、とも言える。

さて外部からみた壁は、左官壁仕上げの土台たる木摺りがほぼ完了したが、内部からみた壁には石膏ボードが張られ始めた。

吉野石膏の不燃タイガーボード、である。カッターナイフでチューっと切って、特別な大根おろしで、ジョリジョリと仕上げればあとはボルトで壁の下地に留めればよい。石膏ボードは中に結晶水が含まれていることで燃えたときに21%も含まれるその水が水蒸気化することで防火の機能があるらしい。このようにして張られていく。

2009年5月20日水曜日

壁の構造

その後、腰は徐々に回復をみせ普段の生活では支障がない状態に戻ってきた。朝の現場通いを復活させ少しずつ写真を撮ったので、現状を報告しておきたい。

気がつかないこともないが、しかしわずかずつの進展はある。外観と内観の壁に関することが最近の目立った進捗である。外観はこんな感じである。「木摺り(きずり)」とよばれる板が外側に、水平に打ちつけられている。



  • 厚さ5mm、幅36mmの杉板を1cm弱の間隔

というのが木摺りの用法らしい。塗り壁工法の下地である。そもそもは洋風建築からやってきたようだ。内側はというと

このように、断熱材がはめ込まれてきた。ここまで書くと明らかなように、もともとの蔵の構造では壁は真壁構造(しんかべこうぞう)である。真壁は壁から柱が露出する構造のことだが、この壁は漆喰、もしくは土壁がオリジナルであった。もとの様子はこんな感じである。

もともとの蔵の壁の厚みを伺い知るにはあまり残された写真が少ないのだが、こんな感じであった。これがもともとの出入り口の一つであったらしい。重厚である。

さすがにこの扉だと毎朝出かけるときと、毎晩帰ってきたときに開け閉めするのが大変すぎる。扉に万が一挟まれたら命にかかわりそうだ。これは冗談だが、外側のこの重厚な蔵の漆喰扉の奥には、蔵の大戸、そして網戸、があったことから、玄関には大戸を利用することになっている。

話が脱線したが、目下の興味は断熱材である。予算の都合上当初は、「ネオマフォーム」ではなく別の断熱材のはずだったが、旭化成のネオマフォームと相成った。


調べてみるとこのネオマフォーム、フェノール樹脂から作られた高性能断熱素材、ということになっている。ココに情報が載っている。木造建築用の用途では我が家のように内張り断熱、ではなく「外張り断熱工法」が旭化成では掲載されている。今一度、我が家の内断熱の利点をMirror man氏に確認しておこう。木造建築の場合、そもそも外断熱も内断熱もあまり大差ない、とはどこでも書かれているようだ。